救急医学 矢口有乃
国連第三委員会での日本政府ステートメント発表
私は、平成3年に本学を卒業し、救命救急センターに入局しました。入局者第一号です。救命救急センターを選んだ理由は、何でも診られる医者になりたかったこと、生命に直結する科であったこと、即断即決の診療が自分に向いていると思ったこと、だったと思います。医者という職業を選んだのも、医者という立場で生命倫理を考えたい、死に向き合っている患者さんに対し宗教人ではなく医者が何かできないのか、という思いがありました。中学生の時には、本気で出家を考えていた時もありましたので、人の「死生観」については、幼い頃からの私の人生の命題のようです。救命救急センターに入局してからは、覚悟の上でしたが、ハードな毎日でした。二日に一回の当直。夏休みは、連続なしの3日間のみ。一泊旅行に行くことができたのは3年目からでした。外勤で当直バイトができるようになってからは、月の28日間は当直、ということもありました。でも楽しかった。日々、学ぶこと、できることが増えていき、上司や看護師さんから頼まれ任せられる仕事も増えていったからです。
前東京消防庁消防総監と
ICUの重症患者さんのベッドの横で、モニター音の変化と、バルーンバッグに滴る尿の変化を刻一刻と気にしながら、ストレッチャーで横になって過ごした夜もありました。助かる患者さんと、どうしても助けられない患者さんの違いはどこにあるのだろうか?という疑問から、血管内皮細胞障害に興味を持つようになり、そのテーマで学位を取得しました。学生時代から海外志向があり、どうしても海外での仕事と生活がしたく、卒後9年目から、ベルギーに5年、米国に1年、計6年間の海外留学生活を送りました。30代後半の欧米での長期海外生活は、私の世界観、人生観を大きく変容させてくれました。国際感覚をも養ってくれました。フランス語は今となってはだいぶ忘れましたが、日常生活には困らないほどまで習得しました。
留学先の教授と
帰国後は、前主任教授の定年退官に伴い、救命救急センターの診療と救急医学講座の教室運営を事実上は任された状況でした。専門分野での国際学会での発表や講演以外にも、国際女医会の代表としてWHO西太平洋地域会議に出席したり、昨年は、国連総会第三委員会に日本政府代表顧問として出席し、他国の外交官や大使に交じりながら、日本政府のステートメント発表を行ったりしました。社会開発や人権問題を扱う委員会で、人権、という問題にも、多国間の政治、経済、宗教、外交問題が複雑に絡み合い、そこにも、医学とは違う側面の死生観が存在していました。自分なりの生命倫理や死生観は暗中模索中ですが、生まれ変わっても救急医を選ぶだろうなと思っています。