1871(明治4) |
遠江国城東群上土方村(現、静岡県小笠郡大東町上土方)に漢方医鷲山養斎、みせの次女として生まれる。 |
明治23年5月医術開業試験前期試験合格
19歳の吉岡彌生(右端) |
1889(明治22) |
上京し、済生学舎に入学。この年「女医学生懇談会」をつくる。 |
1890(明治23) |
内務省医術開業試験前試験に合格。 |
1892(明治25) |
医術開業試験後期試験に合格。 |
1895(明治28) |
吉岡荒太と結婚。 |
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1897(明治30) |
飯田町4丁目9番地に東京至誠医院を開院。 |
明治41年第1回卒業生井出茂代を囲む彌生と荒太 |
1900(明治33) |
東京至誠医院の一室に東京女医学校を創立。 |
1907(明治40) |
東京女医学校校長 |
1920(大正9) |
日本女医会会長 |
1921(大正10) |
文部省生活改善講習会講師となる。ドイツよりプロイセン赤十字第二等第三等章を贈呈される。 |
診療・研究にと充実した日々を送る50代 |
1924(大正13) |
勲六等瑞宝章を授与される。 |
1928(昭和3) |
第一回汎太平洋婦人会議(於ホノルル)に日本女医会代表として出席。大礼記念章を授与される。 |
1933(昭和8) |
文部省社会教育調査委員会委員に就任。教育功労賞を受賞。 |
1935(昭和10) |
日本赤十字社特別委員となり、有功章を受賞。 |
1937(昭和12) |
女性として初めて内閣の教育審議会委員となる。 |
57歳(1928年)洋装の吉岡彌生 |
1939(昭和14) |
厚生省・文部省の嘱託として、欧米諸国の母子保護事業・医学教育を視察。 |
1940(昭和15) |
勲五等瑞宝章を授与される。 |
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1946(昭和21) |
日本医師会参与。厚生省顧問に就任。 |
昭和3年10月 第一回汎太平洋婦人会議を終え
横浜港船上に学生の出迎えをうける |
1952(昭和27) |
東京女子医科大学学頭に就任。 |
1955(昭和30) |
勲四等宝冠章を授与される。 |
1959(昭和34) |
5月22日午後10時55分、世田谷区羽根木町の自宅で逝去(享年88)。正五位勲二等瑞宝章を追贈される。 |