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2017年09月01日国境なき医師団に参加した日本初の医師 貫戸 朋子
難民キャンプでの医療活動を通じて政策の大切さを痛感しました

現在、多くの日本人医師や看護師が海外で医療・人道援助活動を行っているが、その先駆けとなったのが、1993年に日本人医師として初めて「国境なき医師団」の登録医となり、スリランカとボスニア・ヘルツェゴビナで医療活動に携わった貫戸朋子(かんと ともこ)さんである。

 私は小さい頃からスポーツが好きで、特にサッカーが得意でした。小学校の体育の時間にサッカーをやると、私が一番うまい。でも、当時サッカーは男子のスポーツとされ、地域のサッカークラブも女子を受け入れてくれませんでした。私は本を読むことも好きで、サッカーと同じくらい読書にも熱中しました。
 そんなわけで、大学への進路はスポーツ関係か文学系も考えましたが、医師をしていた父の影響もあり、医学部をめざすことにしました。父からは、「女性も経済的に自立しなければならない」と聞かされていましたので、「医師になれば自分で食べていけるだろう」と思い、両親のすすめもあって東京女子医大に進学しました。祖母は父方・母方とも高等教育を受けており、私が女子医大へ行くと報告すると「吉岡彌生のところだね。それはいい」と、とても喜んでくれました。とりわけ父方の祖母は、一人娘だったため東京へ行かせてもらえなかったこともあり、「私も吉岡彌生のところで学びたかった」といってくれたことが心に残っています。

すばらしい先生とすばらしい授業
 在学中は、女子医大出身の大先輩や他大学から来られた方々などすばらしい先生方に巡り会い、すばらしい授業を受けることができたのが大きな財産となっています。当時、日本心臓血圧研究所に“あんぱん会”というのがあり、朝早くから医師や学生が集まって、あんぱんを口にしながら名誉教授だった心臓外科の榊原仟(さかきばら・しげる)先生(1979年没)を囲んで症例検討会や勉強会を行っていました。私はこの“あんぱん会”が楽しみで、末席から榊原先生を見ているだけでワクワクしたものです。
 病理学の梶田昭先生(2001年没)からは基礎をしっかり身につけることの大切さを学び、病理学が大好きになりました。神経内科とは何かを教えていただいた丸山勝一先生(2009年没)、個性豊かな消化器外科の羽生富士夫先生(2010年没)の講義も、それぞれ人柄が伝わってくる印象深いものでした。物静かで周囲が敬意を払わずにはいられない消化器系の山田明義先生、インスリンの自己注射認可に尽力された糖尿病センターの初代所長・平田幸正先生(2014年没)もかけがえのない恩師です。
 のちに病院長を務められた腎移植の先駆けである東間紘(とうま・ひろし)先生(腎移植・血管外科学研究会顧問)は、患者さんを丁寧に診察するため、授業時間になってあわてて何も持たずに講義室へ駆け込んでこられるような方でした。東間先生からは「50~60代の女性で目に見えないような血尿が続いているときは、尿管がんの疑いがある」と教えられました。
 数年前、他病院の腎臓内科にかかっていた女性が婦人科の私のところに来られ、ずっと血尿が続いていることを知って尿管がんかもしれないと思い、調べてもらったところやはりそうでした。東間先生の授業が長い年月を経てよみがえり、たいへん役立ったわけです。

日本人初の国境なき医師団メンバー
 卒業後、京大医学部の婦人科学・産科学教室に入局し、8年間過ごしました。その当時、新聞で「国境なき医師団」というのを目にし、興味を引かれました。環境がまったく違う外国で、学んできた医療を生かしてみたいと考えていた私は、国境なき医師団のパリ本部を訪れました。そして、日本人初の登録医となってスリランカのマドゥという難民キャンプに派遣されることになりました。1993年のことです。
ボスニア・ヘルツェゴビナ スレブレニツァの小学校にて。
ボスニア・ヘルツェゴビナ スレブレニツァの小学校にて。

 スリランカは10年越しの内戦が続いていました。雨期になるとバケツの水をひっくり返したような雨がずっと降り続き、カビが生えて洗濯物は乾かない。戦闘は少なくなるものの、難民たちはうつ病をはじめさまざまな疾患に見舞われ、子どもたちも元気がなくなる。そんな環境に敢えて身を投じたわけですが、自分で決心して行ったわけですから後戻りはできません。スリランカでは6か月間、医療活動を行いました。
 帰国後、戦争に懲りたはずの欧州でなぜ紛争が起き、貧困や飢餓が生じているのかとの好奇心から、今度は志願してボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァという街へ行きました。この街は国連軍の保護下にあった安全地帯でしたが、いつ戦闘が起きてもおかしくない状況でした。そこに11か月間、滞在しました。

疫学と統計学を生かしていきたい
 国境なき医師団としての医療活動を通じて、いかに政策が重要であるかということを痛感しました。政策が
しっかりしていなければ、いくら現場で頑張っても何も変わらないと。そうした政策につながるような勉強をしたいと思い、ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院へ留学し、疫学と統計学を学びました。そのときに学長夫妻から、「女子だけの医科大学が日本にあるのはすばらしい。アメリカにはもう残っていない。誇りを持って女子医大を死守してほしい」と激励されたことをとても嬉しく思いました。
 その後、女子医大の国際環境・熱帯医学教室に在籍中、NHKのテレビ番組「課外授業 ようこそ先輩」に出演する機会があり、「戦争を学ぶ 命を考える」というテーマで、母校(京都教育大学附属京都小学校)の6年生に国境なき医師団での経験を題材とした授業を行いました。1999年4月に放映されたこの番組は、その年の国際エミー賞を受賞しました。会場で審査員のおざなりではない拍手を目にしながら、いい番組は国境を越えて評価してもらえるのだと感激しました。
 私は人間が争うという環境の中でいろいろな経験をし、それを通じてできるだけ患者さんの負担を小さくする医療や充実した予防医療を提供することが重要だと考えています。そういう医療社会をめざし、疫学と統計学の基礎を学んだことも、これからの医療に役立てていきたいと思っています。
 
貫戸 朋子(産婦人科医)貫戸 朋子
1955年京都市生まれ。東京女子医科大学医学部卒業後、京都大学医学部婦人科学・産科学教室に入局。京都大学付属病院などを経て、1993年「国境なき医師団」の日本人医師第一号となり、スリランカとボスニア・ヘルツェゴビナで医療活動に従事。その後、米ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院で修士課程修了。1999年、NHKテレビ「課外授業 ようこそ先輩」に出演。その模様は『国境なき医師団:貫戸朋子 別冊 課外授業 ようこそ先輩』に詳しく描かれている。同番組は国際エミー賞(子ども・青少年番組部門)を受賞した。著書に『「国境なき医師団」が行く』、共著に『NHK未来への提言 アーネスト・ダルコー エイズ救済のビジネスモデル』がある。