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2015年12月07日国際認定山岳医橋本 しをり
準備することの大切さを  登山と研究を通して学びました 

長年、東京女子医科大学の神経内科で研究と臨床に携わり、昨年からクリニックを開業した橋本しをりさん。国際認定 山岳医の資格を持つ登山家としても知られ、登山を通して女性がん体験者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)向上をめ ざす活動を続けている。

橋本 しをり(医師・登山家)

<大学時代は映画も手がける>
 私は本が好きな文学少女でした。思春期には人生についていろいろな疑問を抱き、文学にその解答を求めましたが、解決してはくれませんでした。高校生のとき、時実利彦(大脳生理学者、1909~1973年)先生の『脳の話』という本に 出会い、脳の勉強をすれば人間の本能 や心の動きなどが分かるのではないかと 考え、迷わず女子医大を受験しました。
 入学して最も印象的だったのが、物理の先生のひと言です。「これからは“なぜ”と人に聞いてはいけません」と。世の中には分からないことがたくさんありますが、その答えは人に聞くのではなく自 分で見つけ出さなければいけない。そう いうことが身につくようになりました。
 大学ではワンゲル部に入りましたが、ワンゲル部では冬山登山ができない。そこで、当時休部状態だった山岳部を復 活できないかと、先輩の今井通子さんに相談したところ、いろいろと尽力してくだ さり、復活させることができました。
 山岳部で活動するかたわら、ジャズ 研究会を立ち上げたり、映画をつくった りもしました。ジャズ研究会はその後、公認サークルの軽音楽部となっています。映画は自分で脚本を書き、監督をして制作しました。現在、人気ドラマ「相棒」シリーズの監督として活躍している和泉 聖治さんが協力してくれ、女子医大の同級生・下級生とつくり上げましたが、上映会のときは恥ずかしくてとても見ていられませんでした。 

<登山は自分を見つめ直すいい機会>
 父が神奈川県秦野の結核療養所(現・国立病院機構神奈川病院)に勤務していた関係で、幼少期は豊かな自然環境の中で育ちました。中学生のときは、蝶に魅せられて生物部に入部。顧問の先生が無類の蝶好きで、道もないような野山を蝶を求めて歩き回ったものです。
 登山が面白いと思ったのは、中学の林間学校で北アルプスの燕岳(つばくろだけ)から槍ヶ岳まで縦走したときです。でも高校ではフィールドホッケー部に入り、本格的に登山を始めたのは大学に入ってからでした。
登山は、内省するいい機会だととらえています。慣れてくれば、歩きながらいろいろなことを考えたり、自分を見つめ直したりすることができます。また、テントの中で地面に寝転がるのはほんとうに気持ちのいいものです。
 とはいえ、登山は学生時代で終わりと決めていました。実際、卒業してから2年間の研修医時代は、登山どころではありません。再び登山を始めたのは卒業して3年後。田部井淳子さんを隊長とする日本女子登山隊が、長年あこがれていたブータンへ遠征するという記事を、ふらりと入った書店の山岳雑誌記事で目にし、応募したのがきっかけでした。
 このときに医療担当隊員として参加し、遠征隊員の健康管理を通じて、高所の低酸素下で人体がどのような影響を受けるかという興味深いデータを得ることができました。以来、登山とともにそれをフィールドワークとするようになりました。

<女性だけで8,000m級の山を制覇>
 これまでいろいろな山に登ってきましたが、一番印象に残っているのはガッシャーブルムⅡ峰の登頂です。初めての8,000m級の山で、女性ばかり11人のパーティーの隊長を務めました。中国との2度の合同登山も印象深いものでした。やはり女性ばかりのパーティーで、チョー・オユー、チョモランマと、いずれも8,000m級の山へのチャレンジでした。
 ガッシャーブルムⅡ峰登頂後、約5年半アメリカに留学し、免疫細胞の働きと遺伝子解析の研究に没頭しました。この留学中の研究生活はワクワク・ドキドキするもので、かけがえのないものでした。遠征登山で学んだ“準備が大事”という実感は、この研究留学中に大いに役立ちました。実験準備を2倍にしてうまくいかなくても、すぐに再実験できる態勢を整えていました。
 留学から帰国後、トレーニングを兼ねてよく富士山へ登るようになりました。その富士山に、日米のがん体験者が合同で登る「がん克服日米合同富士登山」が2000年8月に行われ、その実行委員を務めることになりました。支援スタッフを含めて460人もが参加するという大がかりなもので、多くのがん体験者が富士山登頂の達成感を味わい、勇気と希望を持つことができました。



<歩けるかぎり登山は続けていく>
 これをきっかけに、女性がん体験者のQOL向上をめざして2001年末にフロント・ランナーズ・クライミング・クラブ(FRCC)を発足させました。メンバーは医療サポーター、登山サポーター(女子医大の山岳部・ワンゲル部員も参加)を含めて現在約80人。毎月1回、山行を開催しており、すでに150回以上を数えます。
 登山は年齢とともにそれなりのものになっていくでしょうが、歩けるかぎり続けていきたいと思っています。私は国際認定山岳医でもありますので、その活動にも取り組んでいくつもりです。

 昨年、33 年間勤務した女子医大を退職し、世田谷で内科・神経内科医院を開業しました。同じ建物には父の代からの小児科医院があり、弟が診療しています。これまで自分が学んできたことを地域の患者さんたちに詳しく説明しながら、ていねいな診療に努めていきたいと思っています。