川野辺静は7人兄弟の長女として静岡県静岡市で生まれます。高等小学校の時に先天性心臓病を持った5歳の妹を流行性感冒で亡くしたことから、小児科の医師になると決意。女子に学問は不要という封建的な家の中で、母が粘り強く周囲への説得を続け、東京女子医学専門学校への入学が叶います。1930年の卒業後は母校の小児科の医局で5年の研究生活を過ごします。この頃から月に一度、歌舞伎座に通うようになり、幼い頃に手ほどき程度でやめていた踊りの稽古も再開し、研究と趣味の両立に勤しみました。吉岡彌生の喜寿の祝いでは「藤娘」で長年培った踊りを披露したと回顧しています。
1935年に地元静岡の焼津市で開業。2年後には生まれ故郷の静岡市に医院を移します。静岡での開業3年目に、静岡大火で病院も自宅も失いますが、市内で焼け残った父母宅で仮診療所を開く中、恩師である吉岡彌生からの医療器具の寄付や、懇意にしていた六代目尾上菊五郎からの見舞金に助けられたと言います。再建した病院は、今度は戦災により全焼してしまいますが、その混乱の中でも精力的に診療活動を行いました。
戦後、「医者として、新しい日本の女性としてやれることをしなくては」と県内での女性団体の活動に参加したことに始まり、1951年に静岡市会議員に立候補し、上位当選を果たします。当選後は、静岡市に初めて静岡市立乳児院を建て、続いて養護施設若草園を設立するなど、児童福祉の事業に専念し、やがて県婦人団体連絡会の会長となりました。また、地元のため結核予防婦人会を結成したり、県婦人会館を建設、財団法人静岡県婦人協会を設立するなど故郷に数々の貢献をしました。一方、1965年には母校である東京女子医科大学の厚生補導部長となって、多くの学生に誠意を尽くした指導も行いました。
1971年には参議院議員選挙に出馬し、市政から国政へと政治の道を歩むことになります。三木武夫内閣では厚生政務次官に就任して、厚生年金法や健康法の改正など医療政策に従事し、女性のための政治活動にも励みました。6年間政界で精力的に活動した後は、女子医大の常務理事、相談役等を務め、母校にも尽くしました。
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