ブックタイトルSincere No.11 2019.1

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概要

Sincere No.11 2019.1

女子医大の創立者 吉岡彌生物語■中国・天津で医療活動をしていた宇良田唯は、満州事変の勃発によって帰国。ドイツを視察していた吉岡彌生は、第二次世界大戦への突入によって帰国を余儀なくされました。両者とも戦争に翻弄されたことを物語っています。■心臓血管外科の新浪教授は毎年ミャンマーを訪れ、人工心肺装置を用いず心臓を拍動させながら手術を行う冠動脈バイパス術の普及に努めています。昨年11月末に訪れた現地でのその模様が、近々テレビ東京のドキュメンタリー番組「世界ナゼそこに?日本人」でオンエアされます。乞うご期待!■小池百合子都知事が本学にて講演されました。WBSの初代キャスターを務めていたころから知る身としては、大変感慨深いもの。講演だけでなく、その舞台裏まで見ることができましたが、相手の期待を感じてそれに先んじて行動することができ、“社会に貢献する女性リーダー”という意味では、まさに本学が目指すリーダー像でした。■昨年10月1日未明に襲った台風24号は各地に大きな爪痕を残しましたが、神代植物公園も「千万円単位の被害を受けた」とか。取材当日も園内で倒木など痛々しい光景を目にしました。編集後記Sincere|No.11-2019 23診療現場を退き欧米諸国を視察?その11 外遊?学生の寄宿舎と病院の整備が一段落し、次に校舎を新しくすべく計画を進め、いよいよその工事に着手しようとしていた矢先の昭和12(1937)年、日中戦争が勃発した。その影響で建築費が高騰し、鉄筋建築の制限令も出されたことから、工事は当分見送らざるをえなくなってしまった。「学校と寄宿舎と病院が三位一体となって完成したときが、医専から大学への昇格に必要な設備の条件が整ったことを意味する」と考えていた彌生にとって、工事に着手できない無念さはひとしおだった。夫・荒太が臨終の際に残した「大学にしたい」という言葉が、「今もなお私の耳から消え去りません」と語っていることからもそれがうかがえる。そうした中、彌生は文部省・厚生省の嘱託として、ドイツを中心とした欧米諸国の医学教育、母子保護事業の視察を要請された。当時、60代半ばを過ぎていた彌生は、まだ現役の医師として医療活動を行い、さまざまな社会活動も精力的にこなしていた。とはいえ、寄る年波には勝てず、そろそろ引退しようと考えるようになっていた。そこにもたらされた海外視察の話である。引き受ければ半年間くらいは病院を留守にしなければならない。彌生はちょうどいい機会だと思い、外遊に先立つ昭和14(1939)年4月、きっぱりと医療現場から退くことを発表し、余生を女性医師の養成と社会・女性教育に捧げる決意を表明した。こうして5月11日、彌生は横浜港からアメリカへ向けて旅立った。ハワイを経てサンフランシスコに着くと、ジョンス・ホプキンス大学に留学していた息子・博人が彌生を出迎えた。博人はその後、彌生が帰国するまで同行した。アメリカではサンフランシスコのほか、ロサンゼルス、シカゴ、ボルチモア、ニューヨークを訪れ、現地在住の日本人会や婦人会の歓迎会に臨んだり講演会に出席したりした。6月20日、彌生は博人とともにニューヨークからドイツへ向かった。7日後にブレーメンに着き、その日のうちにベルリンに到着。ドイツの婦人会から大歓迎された彌生は、翌日からドイツ国内の病院や学校、社会事業施設などを見て回った。「母性・児童に対する保健衛生上の施設に留意し、すべての人々が楽しんで体位向上に努力しつつある姿はうらやましく、学ぶべきところが多いのを痛感しました」と、彌生は社会事業施設についての感想を述べている。視察はドイツ国内にとどまらず、北欧諸国にも足を向けた。その頃、欧州は風雲急を告げる情勢を呈しており、ついに9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦に突入した。彌生が臨席予定だったベルギーでの国際家庭教育会議も中止となり、彌生と博人は急遽、帰国することとなった。2人は9月2日にベルリンを脱出し、何度も汽車を乗り継いでコペンハーゲンに移動。そこから船でニューヨークへ渡り、アメリカを横断してサンフランシスコから船に乗って無事に横浜へ着いたのは10月28日のことだった。ドイツ北部の都市・キール訪問時の歓迎会に洋装で臨む彌生。右は息子の博人。