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概要

シンシアNo.9

医療の歴史を彩った女性第9回エリザベス・ガレット・アンダーソン(1836~1917年)初の女性首長にもなったイギリス女性医師のパイオニア◆深い感銘を受けたブラックウェルの講演1859年に英国医事委員会から、世界で初めて女性医師として認定されたアメリカのエリザベス・ブラックウェル(本誌第2号の当コーナーにて掲載)。彼女に続いて2番目の女性医師に認定されたのが、同じ名を持つイギリス人であった。エリザベス・ガレット・アンダーソンがその人である。エリザベス・ガレットは、イングランド東部のサフォーク州で裕福な事業家の娘として生まれた。彼女が医師を志す大きなきっかけとなったのが、エリザベス・ブラックウェルの講演だった。ロンドンを訪れていたブラックウェルが1859年に行った「女性にとっての専門職としての医師」と題する講演内容は、かねてより女性運動に関心を抱き、その活動にも参加していたガレットに深い感銘を与えたのである。「医師になることは女性の地位向上につながる」と考えたガレットは早速、ロンドンのミドルセックス病院で外科看護師としての研修を受けることとなった。だが、医療現場は男性社会であり、彼女への風当たりが強かったことはいうまでもない。◆女性による女性のための診療を実践女性医師をめざすべく、ガレットはさまざまな大学の医学部へ入学の申し入れをしたが、女性であるがゆえにことごとく拒否された。だが唯一、薬剤師協会が女性にも門戸を開いており、彼女の入学を受け入れた。そしてガレットは、1865年に薬剤師資格を取得した。当時、薬剤師資格があれば医療施設を開業することができた。晴れてその資格を得たガレットは、ロンドン市内に女性と子どもを対象とした「聖マリー女性診療所」を開設した。この診療所は、すでに親交のあったブラックウェルがニューヨークに開業した女性と子どものための医療施設に倣ったものだった。診療費を極めて低い額に設定した聖マリー女性診療所には、スタート当初から労働者階級の貧しい女性や子どもたちがたくさん訪れ、年間の診察件数は1万件にものぼった。ガレットは、診療活動のかたわらパリの大学に学び、1870年に念願だった医学の学位も取得した。こうしたガレットの活動は、社会的弱者の救済に理解を示す篤志家たちにも評価され、彼らの資金援助を受けた診療所は1872年に病院へと発展した。病院は診療所と同様、“女性による女性のための診療”を理念とし、すべて女性スタッフによって運営されたのが大きな特徴である。この伝統は、男性医師が診療スタッフに加わることとなった2005年まで受け継がれた。◆医師をめざす女性の教育にも注力エリザベス・ブラックウェルがそうであったように、当時の働く女性たちは独身を通す人が多かった。そうした中、ガレットは1871年に実業家のジェームズ・アンダーソンと結婚。子宝にも恵まれ、仕事と家庭の両立をみごとにやり遂げた。ガレットは診療活動にとどまらず、医師をめざす女性の教育にも力を入れ、すでにイギリスに移り住んでいたブラックウェルらと奔走して「ロンドン女子医学校」設立(1874年)に尽力した。ブラックウェルは同校の婦人科学教授に就任、ガレットは1884年から1903年まで校長を務めた。カリキュラムには、当時としては目新しい「衛生学」や「産科学」などが設置された。ガレットは晩年、生まれ故郷のサフォーク州にあるオールドバラという街に引っ越した。そこでも婦人参政権運動に参加するなど、女性の地位向上への情熱は衰えることがなかった。そして、1908年にはオールドバラの行政を司るイギリス初の女性首長として活躍した。ガレットが設立した病院はロンドン大学病院傘下の産婦人科病棟となっていたが、1917年に彼女が81歳で亡くなった翌年、その病棟は「エリザベス・ガレット・アンダーソン病院」と改称された。ガレットの功績が大きくたたえられたのである。参考文献/「イギリスにおける女性医療専門職の誕生と養成・支援活動」(著者:渡邊洋子・柴原真知子、京都大学大学院教育研究科紀要第59号2013)「エリザベス・ガレット・アンダーソン病院の設立について」(著者:柳澤波香、日本医史学雑誌第52巻第1号2006)02 Sincere|No.9-2018