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概要

シンシアNo8

女子医大の創立者吉岡彌生物語?その8関東大震災?増築したばかりの東京至誠病院を焼失大正11(1922)年に夫・荒太を亡くした彌生は、「吉岡家を守り、子どもを立派に育てていくために夫の分まで働かなければ」と決意を新たにした。幸い、飯田町にある彌生の個人病院・東京至誠病院(現在の地下鉄「九段下」駅近く)には次から次へと患者が押しかけるという繁盛ぶり。隣接の家が空くと買い取って病室を増やすものの、すぐさま手狭になってしまい、反対側に隣接する家が売りに出るとそこも手に入れて病室に改築するといった具合で、病院は徐々に大きくなっていった。さらに、病院裏手の弁護士の家と、地続きになった二軒の長屋が空いたためこれも買い取り、100坪ほどの土地に病室と食堂をつくることにした。病室には扇風機や暖房装置が備えられ、食堂は50人くらい収容できる規模で、「わざわざ料理屋へ行かなくても会合が開けるように」という彌生の思いを反映したものだった。これらの建物が出来上がり、請負業者に約4万円の建築費を支払って引き関東大震災で焼けた東京至誠病院。取ったのが大正12(1923)年8月31日だった。その翌日に悲劇が襲った。9月1日午前11時58分、関東大震災が発生し、それに伴う火災によって病院を焼失。増築したばかりの病室や食堂も灰燼に帰してしまったのである。建物は地震の揺れに耐えたため、彌生は当初、患者や職員に「危ないから外に出てはいけない」と呼びかけた。案の定、外へ飛び出したため崩れ落ちてくる屋根瓦などで怪我をした人たちが治療を受けにやってきた。その手当てをしているうちに近くで火の手が上がり、病院が危うくなったため入院患者や看護婦など100人近い一団を近くの公園に避難させ、さらに倒壊や火災を免れた河田町の学校や学校附属病院へ全員を移送させた。葉山へ行っていた彌生の母や息子の博人、義弟・正明の子どもらの消息が不明だったが、4日夜になって無事が確認された。ホッとした彌生は、河田町にやってくるおびただしい数の怪我人や病人を全力で治療した。そして飯田町の病院を復興すべく、震災直後に組閣された内閣で内務大臣兼帝都復興院総裁となった後藤新平を訪ね、「材木の世話をしていただきたい」とお願いした。しかし「係りの者と相談せよ」といわれ、それではらちが明かないと判断して自力で材木を買い集め、約300坪のバラックづくりに着手した。そうした中、彌生は飯田町からほど近い下宮比町の焼け残った病院が売りに出ていることを知る。売値は2 5万円。彌生はそれを2 0万円まで下げさせ、思い切って購入した。修繕を加えて11月23日に東京至誠病院としてオープンするや、たちまち病室が一杯になり、院長室にまでベッドを並べるほどだった。バラックの建物は、東京女子医学専門学校の卒業生組織である至誠会に寄付され、至誠会病院として大正13(1924)年1月1日に開業。彌生は、日曜日の午前中だけはこの至誠会病院に出向いて診療を行った。編集後記■女子医大病院中央検査部の採血コーナーと検体検査室は、圧倒的なキャパシティとスピーディな検査に定評があります。それを支えている臨床検査技師は“黒子”的な存在ですが、彼らがいなければ正確な診療はできないことを再認識しました。■新シリーズ「女子医出身者が活躍する街」の第1回目は静岡市葵区。スキンケアクリニックの平野院長は、「コンパクトで暮らしやすい街」と魅力を語ってくれました。風情のあるおでん街や静岡発祥のタルト専門店などグルメスポットも豊富。また訪れてみたい街です。■掛川・大東キャンパスの看護学部1年生向けに行われたユニークな授業「食のセルフケア」。栄養バランスのよい簡単メニューの調理にトライした彼女たちの生き生きした表情は、とてもほほえましいものでした。■日本の男性は太陽光線による皮膚のダメージにほとんど無関心ですが、「アメリカでは政治家やエグゼクティブといわれる男性も肌のケアに気を遣っています」と皮膚科の川島教授。自分も光老化予防を考えなければと思うようになりました。Sincere|No.8-2017 23