ブックタイトルシンシア No.6
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シンシア No.6
女子医大の創立者吉岡彌生物語?その6文部省指定学校?国家試験免除の指定学校となる明治45(1912)年4月、新たな看板を掲げた東京女子医学彌生が講じた総復習の効果はてきめんに現れた。第1回専門学校には95人が入学、旧東京女医学校在学生のうち卒業生46人のうち27人が国家試験に合格したのである。56人を2学年に編入し、我が国初の4年制の女性医師養成6割の合格率は、他の医専と比べても引けを取らない立派な機関が誕生。前途洋々のスタートを切った。成績だった。女子医専は名実ともに、唯一の女性医師養成だが3年後の大正4(1915)年、学校がつぶれてしまうよう機関として全国に認知されるようになり、入学志願者が急増。な騒ぎが持ち上がった。突然、解剖室が警察の手入れにあっ大正8(1919)年の新入学生は130人を数えた。たのである。解剖実習のためにアルコール漬けの遺体を貯蔵これと歩調を合わせるように、「他の私立医専から指定学していたことが犯罪だと新聞に書き立てられたからだ。彌生校の申請が出されているが、女子医専は申請しないのか」は検事局へ足を運び、「医学の研究にためにやっていること」という話が文部省から投げかけられた。文部省の指定学と説明したが、らちがあかない。校になれば、国家試験を受け遺体の貯蔵が許されなけれなくても卒業後すぐに医者にば、医学の進歩に影響を及なることができる。このため、ぼす。結局、文部省が解決に学生や父兄からも早く指定学動き、検事局は不問に付すと校にしてくれとせがまれていいう態度に変わって一件落着た。彌生は早速、必要な手続した。きをして正式に申請し、大正9この事件は彌生の人生に(1920)年3月、晴れて文部省とって最大の受難だったが、結の指定学校になることができ果的に医術の進歩に欠かせなた。医専の認可を得てから9い解剖の自由が保証されるこ大正11(1922)年に落成した東京女子医学専門学校の大講堂。年目。女子医専の実力が国かとになった。とはいえ、いちど傷つけられた学校の信用を取りら認められ、女性医師の社会的地位も確固としたものになっ戻すのはなかなか容易なことではなかった。た証である。彌生の感慨もひとしおだった。そうした中、女子医専は46人の学生が最初の卒業を迎え彌生は指定学校になれたことを祝して、帝国ホテルで盛大た。だが、彌生はすぐに卒業証書を与えず、さらに半年間、にパーティーを開催した。また、将来の大学昇格への布石と全科目の総復習を彼女たちに課し、卒業式を11月に引き延して定員150人の予科を新設。さらに、大正11(1922)年のばした。翌大正6(1917)年2月に、医学専門学校の卒業生春には3階建ての大講堂も落成するなど、大きな発展を遂げでなければ受けられない新しい国家試験が行われるため、た。だが、いいことばかりは続かない。夫・荒太の病状が急女子医専の真価が問われることになるからだ。速に進んでいったのである。編集後記■胃がんと肝がんの多くは、それぞれピロリ菌、C型肝炎ウイルスが原因物質であることが分かっていますが、膵がんと大腸がんはまだ原因がはっきりしていません。「いずれ原因物質が解明できると信じて研究に取り組んでいます」という消化器病センター・徳重教授の言葉が印象的でした。■東洋医学研究所が入居するビルの目の前に「田端文士村記念館」があります。そこに展示されている芥川龍之介が暮らした家の模型はとても精巧で、当時の生活感が伝わってきます。企画展「鉄道からはじまる田端の街ものがたり」と併せて一見の価値があります。■自らクルマを運転して他の医療機関へ出張往診もしている東医療センター新生児科の長谷川教授。1日の走行距離が400kmにおよぶこともあるとか。まさに“スーパードクター”そのものです。■看護学部のNHR(ナーシング・ヒューマン・リレーションシップ)という授業は、1・2・3年生が合同で討議などを行うユニークなもの。学生が自主運営するというのも女子医大ならではの特徴です。●本誌掲載写真のうち患者さんが写っているものはすべて許可を得て撮影しています。Sincere|No.6-2016 23