ブックタイトルシンシア No.6
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シンシア No.6
医療の歴史を彩った女性第6回医学校・済生学舎の門をこじ開けた高橋瑞子日本の女性医師育ての親(たかはしみずこ1852~1927年)◆自活するために産婆の免許を取得幾多の苦難に見舞われながらも、そのたびに誰かが手を差しのべてくれる奇特な性格。風貌からも見て取れるような豪傑肌。そして、幕末から明治、大正、昭和と激動の時代を体当たりで駆け抜け、女性医師志望者のために医学校の門戸をこじ開けた先駆者。それが高橋瑞子である。高橋瑞子は1852(嘉永5)年、現在の愛知県西尾市の武家に生まれた。9歳で父を亡くし、家督を継いだ兄から「女に学問はいらない」といわれて育った。その後、25歳となった瑞子は東京に住む資産家の伯母の養女となり、その家の養子と結婚する。しかし、伯母が食べ物もろくに与えない吝嗇家で、夫にも問題があったことから、自らの意思で離縁。内職仕事では自活が難しいことを知り、収入の多い医者になろうと決意する。そのためにまず産婆となり、次に医者をめざそうと考えた。1879(明治12)年、瑞子は知人の紹介により群馬県前橋で産婆会の会長を務める津久井磯子の産院に弟子入りし、産婆としての基礎を学ぶ。3年の修業の後、瑞子は東京浅草の産婆学校・紅杏塾に入学し、産婆の免許を取得した。◆日本で3番目の女性医師となる目標に一歩前進したものの、女性が医者になる道はまだ閉ざされたままだった。瑞子はまた前橋に戻り、産婆として働いた。1884(明治17)年、政府が女性医師を公認したとの話を聞いた瑞子は、ただちに上京して医学校・済生学舎の門をたたいた。だが、済生学舎は女性の入学を認めておらず、門前払いを食う。瑞子は三日三晩、門の前に立ち続け、長谷川泰校長に訴えた。その熱意が通じて入学が許可されたが、男子学生から手厳しい嫌がらせを受けた。瑞子はそれに屈することなく、猛勉強の末に翌年、医術開業試験の前期試験に合格する。次は後期試験である。後期試験には臨床試験があるため、瑞子は順天堂医院に実地研修の受け入れを願い出る。しかし、ここでも「女子は受け付けぬ」と拒否される。が、偶然にも瑞子の下宿の隣に順天堂医院の佐藤進院長の甥が住んでおり、その人の計らいで受け入れが許可されることになった。しかも、瑞子の窮状を見かねて月謝まで免除された。入学金だけは納めようと、瑞子は夜具を売ってお金を工面したが、それもほどなく返されたという。この頃の瑞子は、まだ暗いうちから書物を背負って学校へ通った。その姿を怪しんだ巡査から、よくとがめられたとか。夜7時頃下宿へ帰ると復習。その間に病院へも顔を出し、日付が変わる頃から内職に取りかかる。文字どおり不眠不休の生活だった。こうした努力が実り、1887(明治20)年4月に難関の後期試験を突破。日本で3番目の女性医師となった瑞子は36歳になっていた。◆死してなお医学のために尽くす翌年、瑞子は日本橋の元大工町に医院を開業した。だが、それに満足することなく、1890(明治23)年に日本の女性医師として初めて医学の本場、ドイツへ渡航する。ところが、ドイツの医科大学では女性の入学が許されていなかった。異国の地で窮地を救ってくれたのは、下宿の女主人だった。彼女の力添えで、瑞子はベルリン大学婦人科教室の聴講生となった。しかし、1年後に突然喀血。学業半ばで重い病状のまま帰国の途についたが、瑞子は奇跡的に回復し、無事に日本の土を踏むことができた。医院を再開した瑞子は、ドイツへ洋行したことが評判となり、たちまち屈指の流行医となった。にもかかわらず、6 0歳を過ぎた瑞子は1914(大正3)年、老齢による衰えで万一の間違いがあってはならないと、潔く引退を決意。そして1927(昭和2)年2月、76歳の生涯を閉じた。瑞子は生前、東京女子医科大学の創立者・吉岡彌生に献体を申し出ていた。解剖実習に供された瑞子の遺骨はガラスケースに収められ、校内に保存された。吉岡彌生は、「死してなお医学のために尽くそうとするこの大先輩の意気に打たれないではいられませんでした」と瑞子を称えている。注:年齢は数え年で表記参考文献:『吉岡弥生傳』(編者・吉岡彌生女史傳記編纂委員会、発行・東京聯合婦人會出版部)、「日本女医史の研究(二):高橋瑞子」(執筆・吉岡博人、発行・東京女医学会雑誌)02 Sincere|No.6-2016