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概要

sincere no05

医療の歴史を彩った女性第5回日本医学界の歴史に燦然と輝く荻野吟子女性医師の第一号(おぎのぎんこ1851~1913年)◆女性医師になるという強い決意「女性の医者がいれば私のように羞恥と屈辱に苦しむことはない。私が医者となって同じような女性たちを救おう」淋疾治療のため男性医師の診察を受けた荻野吟子は、そう決意した。19歳のときだった。吟子は1851(嘉永4)年3月、現在の埼玉県熊谷市俵瀬で誕生した。幼い頃から聡明で学問に親しんだ吟子は、現・熊谷市上川上の名主・稲村家へ嫁いだが、ほどなく夫の貫一郎から淋疾をうつされ、実家での療養を余儀なくされた。離婚した吟子は東京の順天堂医院に入院し、治療に専念することになった。そこでの思いもよらぬ羞恥の経験が、「女性医師になる」との強い決意をもたらしたのである。退院後、実家に身を寄せていた吟子は1873(明治6)年に上京し、まず国学よりくに者の井上頼圀に師事した。2年後、本郷に開校された東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の第1期生として合格。入学者は74人だったが半数以上が脱落し、1879(明治12)年に卒業できたのは吟子を含めて33人だった。◆医術開業試験の受験を訴える東京女子師範学校を卒業した吟子ただのりは、知遇を得た陸軍軍医監・石黒忠悳の尽力により、私立医学校・好寿院に入学することができた。とはいえ、医学生は男ばかり。紅一点の吟子は好奇の目で見られ、罵声や嫌がらせを受ける。さまざまな苦渋を味わいながらも、吟子は毅然とした態度で好寿院へ通い続け、3年後の1882(明治15)年に抜群の成績で卒業。念願の女性医師が手の届くところ鹿鳴館スタイルのドレスをまとった荻野吟子(撮影協力:熊谷市立荻野吟子記念館)。となった。だが、ここからが本当の正念場だった。当時の医師免許規則では、私立医学校卒業生は医術開業試験を受けて合格しなければ医師にはなれなかった。ましてや、女性がこの試験を受けることはなかった。それでも吟子は、卒業後すぐに東京府へ医術開業試験受験の願書を提出した。が、予想どおり却下。翌年、再び願書を出したものの、やはり受理されず、次に埼玉県へ提出したが結果は同じだった。吟子は前出の石黒忠悳を頼り、事情を説明。石黒は時の内務省衛生局長・長与専斎に対し、「女子が試験を受けてはならないとの規則はない」と迫った。また、吟子を支援していた実業家・高島嘉右衛門も、「日本の古代にも女性医師がいた」という資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に与えた。こうした説得が功を奏し、ようやく女性も医術開業試験を受けることができるようになった。小躍りした吟子は1884(明治17)年9月、医術開業試験の前期試験を受験し、みごと合格。4人の女性受験者のうち、合格したのは吟子だけだった。翌年3月には難関の後期試験も突破し、晴れて女性医師第一号が誕生。吟子34歳、女性医師になると決意して15年の歳月が流れていた。◆女性の社会的地位の向上に貢献後期試験に合格してまもなく、吟子は湯島に産婦人科・荻野医院を開業。たちまち待合室が溢れるほどの盛況ぶりで、1886(明治19)年には下谷に2階建ての大きな家を借りて移転した。かねてよりキリスト教に関心を寄せ洗礼も受けた吟子は、東京婦人矯風会(現・日本キリスト教婦人矯風会)発足とともに風俗部長に就任し、婦人参政権、廃娼、禁酒・禁煙などの運動にも取り組むようになった。そうした中、13歳年下のゆきよしキリスト教伝道者・志方之善と知り合い、1890(明治23)年に再婚する。翌年、志方は北海道での理想郷建設をめざして渡道。吟子も医院をたたみ、1894(明治27)年に北海道へ渡った。その後、北海道瀬棚(現・せたな町)で医院を開業した吟子だが、志方を急性肺炎で亡くし、自身も心臓発作を起こしたことから、1908(明治41)年に東京へ戻った。そして、5年後の1913(大正2)年6月に波瀾万丈の人生の幕を閉じた。東京女子医科大学の創立者・吉岡彌生は、「日本の女性医師の先駆者として尊敬すべきであり、日本婦人の社会的地位を向上するものとしての大先輩」というように荻野吟子を賞賛している。参考文献・資料/『花埋み』(著者:渡辺淳一、発行:新潮社)、『日本最初の女医荻野吟子』(発行:熊谷市教育委員会)、せたな町ホームページ『荻野吟子の生涯』(監修:弦巻淳)02 Sincere|No.5-2016