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概要

sincere no04

至誠人難民キャンプでの医療活動を通じて政策の大切さを痛感しました現在、多くの日本人医師や看護師が海外で医療・人道援助活動を行っているが、その先駆けとなったのが、1993年に日本人医師として初めて「国境なき医師団」の登録医となり、スリランカとボスニア・ヘルツェゴビナで医療活動に携わった貫戸朋子さんである。貫戸朋子(産婦人科医)祖母に喜ばれた女子医大への進学私は小さい頃からスポーツが好きで、特にサッカーが得意でした。小学校の体育の時間にサッカーをやると、私が一番うまい。でも、当時サッカーは男子のスポーツとされ、地域のサッカークラブも女子を受け入れてくれませんでした。私は本を読むことも好きで、サッカーと同じくらい読書にも熱中しました。そんなわけで、大学への進路はスポーツ関係か文学系も考えましたが、医師をしていた父の影響もあり、医学部をめざすことにしました。父からは、「女性も経済的に自立しなければならない」と聞かされていましたので、「医師になれば自分で食べていけるだろう」と思い、両親のすすめもあって東京女子医大に進学しました。祖母は父方・母方とも高等教育を受けており、私が女子医大へ行くと報告すると「吉岡彌生のところだね。それはいい」と、とても喜んでくれました。とりわけ父方の祖母は、一人娘だったため東京へ行かせてもらえなかったこともあり、「私も吉岡彌生のところで学びたかった」といってくれたことが心に残っています。すばらしい先生とすばらしい授業在学中は、女子医大出身の大先輩や他大学から来られた方々などすばらしい先生方に巡り会い、すばらしい授業を受けることができたのが大きな財産となっています。当時、日本心臓血圧研究所に“あんぱん会”というのがあり、朝早くから医師や学生が集まって、あんぱんを口にしながら名誉教授だった心臓外科の榊しげる原仟先生(1979年没)を囲んで症例検討会や勉強会を行っていました。私はこの“あんぱん会”が楽しみで、末席から榊原先生を見ているだけでワクワクしたものです。病理学の梶田昭先生(2001年没)からは基礎をしっかり身につけることの大切さを学び、病理学が大好きになりました。神経内科とは何かを教えていただいた丸山勝一先生(2009年没)、個性豊かな消化器外科の羽生富士夫先生(2010年没)の講義も、それぞれ人柄が伝わってくる印象深いものでし貫戸朋子(かんとともこ)1955年京都市生まれ。東京女子医科大学医学部卒業後、京都大学医学部婦人科学・産科学教室に入局。京都大学付属病院などを経て、1993年「国境なき医師団」の日本人医師第一号となり、スリランカとボスニア・ヘルツェゴビナで医療活動に従事。その後、米ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院で修士課程修了。1999年、NHKテレビ「課外授業ようこそ先輩」に出演。その模様は『国境なき医師団:貫戸朋子別冊課外授業ようこそ先輩』に詳しく描かれている。同番組は国際エミー賞(子ども・青少年番組部門)を受賞した。著書に『「国境なき医師団」が行く』、共著に『NHK未来への提言アーネスト・ダルコーエイズ救済のビジネスモデル』がある。た。物静かで周囲が敬意を払わずにはいられない消化器系の山田明義先生、インスリンの自己注射認可に尽力された糖尿病センターの初代所長・平田幸正先生(2014年没)もかけがえのない恩師です。のちに病院長を務められた腎移植のとうまひろし先駆けである東間紘先生(腎移植・血管外科学研究会顧問)は、患者さんを丁寧に診察するため、授業時間になってあわてて何も持たずに講義室へ駆け込んでこられるような方でした。東間先生からは「50~60代の女性で目に見えないような血尿が続いているときは、尿管がんの疑いがある」と教えられました。数年前、他病院の腎臓内科にかかっていた女性が婦人科の私のところに来られ、ずっと血尿が続いていることを知って尿管がんかもしれないと思い、調べてもらったところやはりそうでした。04 Sincere|No.4-2015