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概要

シンシア 2014.No.3

女子医大の創立者吉岡彌生物語―その3女医学校創立期―吉岡荒太と結婚し東京女医学校を創立明治25(1892)年秋に医師の免許を取得した彌生は翌年、で蕎麦を食べながら質素に結婚を祝った。ときに荒太27歳、父に呼び戻されて郷里(現在の静岡県掛川市)へ帰り、鷲山彌生24歳だった。医院の分院で開業医として医師のスタートを切った。かけ出結婚後、荒太の至誠学院の運営を手伝いながら、彌生しながら彌生はすぐさま評判となり、分院は大繁盛。だが、は学院の向かい側の空き家を利用して東京至誠医院を開業医師としてもっと勉強したいと願う彌生は、分院で2年半働いし、忙しい毎日を送っていた。そうした中、荒太が重度の糖たあと父の許しを得て再び東京へ出た。尿病を患っていることが発覚し、至誠学院の閉鎖を余儀なく上京した彌生は、医学の本場ドイツへ行こうと考え、まずされる。吉岡家の生活は彌生の至誠医院に頼らざるをえなくはドイツ語を学ぶべく東京至誠学院というドイツ語を教えてくなったが、幸い医院は順調で、母校の済生学舎(現・日本れる私塾を訪れた。そこで運命の人と出会う。夫となる吉岡医科大学)に通う2人の女子学生の面倒もみていた。荒太が至誠学院の若き院長だったのその彼女たちがある日、済生学舎である。佐賀県出身の彼は医師をめから帰ってくるなり「先生、一大事です。ざしていたが、学生時代にチフスと私たちは学校に行けなくなってしまい脚気を患ったうえ、弟2人が相次います」と彌生に訴えた。済生学舎が、で上京してきたため彼らの面倒をみ男女の風紀の乱れから女子の入学なければならず、医師になることを断を許可しないと決めたのである。行き念してドイツ語の私塾を開いていたの場を失う女子学生を救わなければなである。らないと、彌生は一大決心をする。「女彌生が至誠学院へ通いはじめて3性医師を育成する学校をつくろう」と。か月が過ぎたある日、荒太の弟・松養生したおかげでかなり健康を取造が彌生の下宿を訪れ、「兄の嫁にり戻していた荒太の協力も得て、至なってもらえないか」と申し入れた。誠医院の一室を教室にし、「東京女彌生は戸惑ったが、荒太はドイツ語医学校」(のちの東京女子医科大学)ができるすばらしい人である。また、の看板を掲げたのは明治33(1900)学問の世界に打ち込んでいる荒太と年12月、彌生29歳のときだった。東同じ環境に身を置けば、自分を高め京女医学校はたった4人の学生からていくことができるに違いない。そうのスタートだったが、荒太と彌生はこ考えた彌生は快く結婚を承諾。1か月後、吉岡3兄弟と彌生の4人だけ上:吉岡荒太・彌生夫妻。左下:創立当時の東京女医学校の様子を描いた飾り。右下:東京女子医科大学発祥の地碑(千代田区のホテルグランドパレス前)。の4人のために力を合わせ、全力で教育にあたったのである。編集後記■医学も音楽もあきらめなかったアン・サリーさん。予想どおりの素敵な人でした。かわいらしい外見の中にも、一本しっかりした軸が通っていることを感じました。■リウマチセンターの待合室は朝から夕方までいつも満員でした。そこで行われているIORRAアンケート。驚異的なのは98%という回収率だけでなく、研究内容の診療への応用とその成果でした。■荒川区西尾久界隈はかつて花街でした。そこで働く女性たちに手をさしのべ無料で診療を行ったのが東医療センターの始まりです。女性の社会的地位の向上に尽力した吉岡彌生の偉大さをあらためて知りました。■医師だけでなく看護師や薬剤師も交えての症例検討会。それも暗くなってからのスタート。夜遅くまでがんと向き合っているがんセンターのスタッフに頭が下がる思いでした。■酒を飲むとつまみで塩分をとりすぎて血圧が上がり、飲みすぎると利尿作用で脱水症状を引き起こし、血液がドロドロになって脳梗塞の引き金になる。岡田芳和病院長の話は左党の身にかなりこたえるものでした。●本誌掲載写真のうち患者さんが写っているものはすべて許可を得て撮影しています。Sincere|No.3-2015 23