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概要

シンシア 2014.No.3

フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910年)ランプをかかげた貴婦人◆病人の世話をすることが天命「だれもひとりで死なせてはならない」クリミア戦争で負傷したり病に倒れたイギリス兵の看護にあたったフローレンス・ナイチンゲールは、そういって重篤な患者のベッドに付き添い、夜遅くまで病室を見回って傷病兵を元気づけた。白い帽子をかぶり、黒い服にショールを羽織って小さなランプを手にしながら見回るその姿を、傷病兵たちは“ランプをかかげた貴婦人”と称した。ある兵士はこう書き記している。「あの方が通り過ぎていくのを見るだけで、なんと心が安まったことか」と。フローレンス・ナイチンゲールは、イギリス上流階級の両親がイタリア滞在中の1820年に誕生した。フローレンスの名は、その地(フィレンツェ)に由来している。フローレンスは16歳のとき、「あなたはいつか非常に重要な任務に就くだろう」という神の声を聞いた。それが病人の世話をすることだと思うようになったのは20歳のときだった。その年の夏、イギリス北部の別荘で過ごす間に、周辺の貧しい人々や病人に手をさしのべたフローレンスは、人の役に立っているという実感を初めて味わった。彼女は「看護の仕事に就こう」と決心する。が、家族は大反対。もとより、当時の上流階級の子女は職業に就くことはなかった。◆仮設病院で衛生面の改善に取り組む30歳になったフローレンスはドイツ・カイザースヴェルトの病院を訪れ、看護について学んだ。この頃は父親もフローレンスのよき理解者となっていた。そして1853年、彼女はロンドンに開設された貧困女性のための療養所に迎えられ、イギリスにおける看護の第一人者との評判を得るようになった。時を同じくして、クリミア半島を舞台にロシアとトルコが戦闘状態に入り、翌年にはイギリスもロシアに宣戦布告。ついに運命的ともいえる重要な任務がフローレンスに与えられることになる。当時、知遇を得ていた陸軍大臣のシドニー・ハーバートから、傷病兵の看護にあたるよう要請されたのだ。フローレンスは修道女と看護婦38人を率いてトルコ・スクタリにある仮設病院へ向かった。だがそこは、病院とは名ばかりの惨憺たる状況だった。ケガや病に伏した兵士たちは血のこびりついた衣服のまま収容され、洗うための水はなく、排水溝は詰まり、シラミが這い回っている。薬や包帯もほとんどなく、食事も病人食にはほど遠い。まさに地獄だった。フローレンスは衛生状態や食事の改善に取り組み、献身的に傷病兵の看護にあたった。その結果、仮設病院での死亡率が劇的に低下し、死亡者の多くが不衛生による感染症がその原因だったと見られるようになった。◆看護の原則は新鮮な空気と陽光1856年にクリミア戦争が終わり、仮設病院の最後の患者が退院すると、フローレンスは人目につかないように帰国した。すでに彼女の名は広く知れわたり、イギリスでは盛大な歓迎の準備が進められていたが、彼女はそれを良しとしなかった。帰国後、フローレンスはビクトリア女王に陸軍の衛生問題の改善を進言し、その調査機関として王立委員会が設置された。彼女は委員会のために、表やグラフを用いた統計資料を精力的に作成した。ちなみに、フローレンスは統計学の先駆者とされ、円グラフの一種の考案者といわれている。40歳を迎えた1860年には、ロンドンの聖トーマス病院内に「ナイチンゲール看護学校」を開校するとともに、看護のバイブルともいえる『看護覚え書』を著した。この中でフローレンスは、「看護の第一原則は、患者が呼吸する空気を屋外の空気と同じ清浄さに保つこと」、「病人を看護してきた私の動かしようのない結論、それは新鮮な空気に次いで病人が求めるのは、陽光をおいてほかにはない」と述べている。まさに真理をついている。参考文献/『ナイチンゲール』(著者:アンジェラ・ブル、翻訳:榊直子、発行:佑学社)、『看護覚え書』(著者:フロレンス・ナイチンゲール、翻訳:湯槇ます他、発行:現代社)02 Sincere|No.3-2015