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概要

シンシア 2014.No.2

女子医大の創立者吉岡彌生物語―その2医学校時代―済生学舎で学び女性医師となる17歳になった彌生はある日、父にこう切り出した。「私を東京に行かせてください。医師になるための勉強がしたいのです」と。彌生の2人の兄は既に、医師をめざして東京の済生学舎(現・日本医科大学)で学んでいた。それに刺激を受けたのはいうまでもない。だが、父は首を縦に振らない。約2年間、親子は反目し合う状態が続いた。明治22(1889)年3月、久しぶりに下の兄が帰省し、「済生学舎では少数ながら男子に混じって女子が学んでいる」という朗報をもたらした。これに意を強くした彌生は、必死になって父を説得し、ついに東京行きの許可を得る。兄と一緒に、初めて汽車に乗って東京に着いたのは4月6日のことだった。翌々日の月曜日、彌生は兄に連れられて済生学舎へ行き、入学の手続きをした。そして聴講券を受け取り、講堂をのぞいて驚いた。満員の芝居小屋のような混雑ぶりで、講義を聴くどころか中へ入るのもおぼつかない。やっとの思いで「女子席」という立て札のある席へたどり着いた。その間、男子生徒からヤジを浴びせられ、紙つぶてを投げつけられる。彌生は生きた心地がしなかった。そのうえ講義内容はさっぱり分からず、彌生はむな医術開業試験・前期試験に合格したときの記念写真(浅草の写真館にて撮影、右が吉岡彌生)。しく下宿へ引き返した。翌日から一心不乱に勉強に打ち込み、1~2か月経った頃から講義も理解できるようになった。1年間、済生学舎で学んだ彌生は、他の15人の女子学生とともに医術開業試験を受けた。この試験は前期と後期があり、両方に合格して初めて医師の免許が与えられる。彌生が受けたのは前期の試験で、16人の女子学生のうち彌生ととま伊藤房野、中原篷、斎藤かねの4人が合格した。彌生はうれしさのあまり、伊藤、中原と誘い合わせて浅草へ繰り出した。観音様をお参りし、仲見世を見て回ったあと、向島の一流料亭「八百松」へ上がり込み、日本料理に舌鼓を打った。ちなみに、「八百松」は森鴎外の小説や落語にも登場する有名料亭である。豪遊した代金は、お金にゆとりのあった伊藤が立て替えた。この年の秋、上の兄が後期試験に合格。さらに翌年の秋には下の兄も合格し、医師の免許を取得した。残された彌生は、下宿生活を続けながら済生学舎へ通い詰め、明治25(1892)年春、後期試験に挑んだ。だが不合格。秋に再び挑戦し、今度はみごと合格。ここに日本で27番目の女性医師が誕生した。彌生21歳のときである。編集後記■橋本しをりさんの山行に同行。がん体験者を含む女性参加者たちはとにかく元気なのでびっくり。中には70歳代の人もいると聞いて二度びっくり。日頃の運動不足がたたって膝がガクガクの当方にひきかえ、彼女たちの足取りは実に軽快。女性のパワーに圧倒された一日でした。■女子医大の創立者・吉岡彌生のふるさと掛川はお茶の産地として知られ、見所やおいしいスポットもたくさんあります。機会があればぜひ一度、訪れてみてください。■その掛川にある大東キャンパス恒例の“お茶摘み”。看護学部の1年生だけが体験できる貴重なイベントに、学生たちは大喜びでした。きっと忘れられない思い出になるでしょう。■総合周産期母子医療センターに指定されている八千代医療センター。母体胎児科の正岡教授は「千葉県の周産期医療の“最後の砦”としての矜持を持って任務にあたっている」と語り、新生児科の近藤教授は「赤ちゃんをケアするテクニックは日本の中小企業の技術力に通じるものがある」という。両教授の含蓄のある言葉がとても印象的でした。Sincere|No.2-2014 23