ブックタイトルシンシア 2014.No.2
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シンシア 2014.No.2
エリザベス・ブラックウェル(1821~1910年)世界で初めて医師登録された女性◆24歳のときに医師をめざす「ほんとうの医師は、女性ならば自然に持っているはずの優しさ、思いやり、人を守る心がけを持たなければなりません。患者さんは人であって、個々の病気の症例ではないのです。そのことを忘れてはいけません!」(日本女医会発行『世界最初の女性医師~エリザベス・ブラックウェルの一生~』より)。1821年にイギリスで生まれ、一家で移住したアメリカで女性として初めて医科大学を卒業し、イギリスで最初に女性医師として登録されたエリザベス・ブラックウェル。彼女が医師をめざしたのは24歳のときだった。当時、医師は男性の職業とされており、女性の医師は皆無に等しかった。そんな中、エリザベスが医師になろうと思ったのは、子宮がんで余命いくばくもない母の友人を見舞ったとき、その人が「女性の医師がいれば恥ずかしい思いをしなくてすんだのに……」といったのが一つのきっかけだった。その頃、イギリスにエジンバラ医科大学出身のジェームズ・ミランダ・バリーという軍医がいた。軍医総監まで務めたこの人物は、1865年の死後、女性であることが判明したが、もちろん当時のエリザベスはそのことを知る由もなかった。◆医科大学を首席で卒業医師になろうと決意したエリザベスは、医学のメッカともいうべきペンシルベニア州のフィラデルフィアへ向かう。そこで手当たりしだいに医学校へ入学申し込みをしたが、女性であることを理由にすべて断られた。それでもあきらめず、ニューヨーク州にある医学校へも願書を送った。そのうちの1校、ジニーヴァ医科大学だけが入学を許可してくれた。喜び勇んでジニーヴァを訪れたエリザベスだったが、当初は大学も街も彼女を歓迎してくれなかった。しかし、担任のウェブスター教授の応援を得て勉学にいそしみ、成績も優秀だったことから、徐々に好意を抱かれるようになった。大学の夏季休暇中、エリザベスはフィラデルフィアにある慈善病院でレジデント見習いとして働いた。たまたま発疹チフスが流行し、多くの患者が病院に送り込まれてきた。彼女は自分が目にした患者の症例を克明に記録し、論文にまとめた。それが院内で大評判となり、ウェブスター教授からも絶賛された。こうして1849年、エリザベスはジニーヴァ医科大学を首席で卒業した。◆米英で女子医学校を創設卒業後、エリザベスは外科医をめざしてパリを訪れたが、受け入れてくれる病院は一つもなかった。意を決して、彼女は規模の大きな産婦人科病院の助産婦見習いとして働くことにした。だが、そこで待っていたのは片目を失明するという悲劇だった。ある日、腫れた目をした乳児の目を洗浄中、その飛沫が彼女の目を襲った。乳児は感染力の強い目の病気を患っていたのだ。失意の日々を送る中、イギリス・ロンドンの聖バーソロミュー病院から声がかかり、エリザベスは初めて医師として迎えられた。このときから、フローレンス・ナイチンゲールとの親交が始まる。イギリスで医師として働くようになったエリザベスだが、1851年にアメリカへ帰国し、ニューヨークで診療所を開業。さらに1857年、同じく医師になった妹のエミリーとエリザベスの教え子・マリーとともに、女性と子どものための慈善病院を開院した。この病院は、患者が退院した後も医師が往診するというシステムをエリザベスが打ち出したこともあって評判となり、のちに勃発した南北戦争のときは両軍の区別なく傷病兵を手当てした。そして、初めて4年制の女子医科大学を創設するに至った。その後、エリザベスは養女のキティとイギリスへ渡り、施療所を開くとともに女子医学校創設に尽力した。また、講演活動なども活発にこなし、彼女の名声は世界中に響き渡っていった。02 Sincere|No.2-2014