沿革
島津フミヨ教授
島津フミヨ教授
1942年4月、島津フミヨが放射線医学教室の初代主任教授に就任し、放射線医学教室の真の教室づくりが始まった。各科からの要請も多くなり、特に教育面では、臨床講義のほかに放射線基礎物理学の教育にも力を注いだ。一方、研究面では榊原仟外科学教授が肺外科から心臓外科に転じ、榊原教授の要請で、1951年には、当教室独自の考案により作製した梯子式連続撮影装置の試作に成功し、心血管造影診断として心臓外科の発展に大きく貢献した。1958年の第17回日本医学放射線学会総会で「心臓血管造影法の先天性心疾患への応用」と題した宿題報告でその成果が発表された。
田崎瑛生教授
田崎瑛生教授
1968年4月国立放射線医学総合研究所で、あらゆる放射線治療の第一線に当たっていた田崎瑛生が放射線科主任教授に着任した。田崎はまず、「教室づくり」にとりかかり、特に教室員の指導に当たるための「スタッフの確保」と「学生教育」に主力を注いだ。診断、治療、核医学の3部門を充実させ、理想的放射線医学教室をつくり上げるための基盤の第一歩を踏み出した。1973年田崎教授は第32回日本医学放射線学会総会で「子宮頚癌放射線治療の2、3の問題」と題した宿題報告を発表し、また厚生省がん研究助成金による田崎班も結成され、日常診療、教育、研究の教室活動も次第に盛んとなり、教室への入局希望者も年ごとに増加した。
重田帝子教授
重田帝子教授
1983年4月重田帝子が3代目主任教授に就任し、翌年の1984年にはMRI(0.15T 常電導装置)が設置され新たな画像診断法が取り入れられた。脳神経センター、消化器病センター、心臓血圧研究所の各センターの発展に伴い、神経放射線科、消化器放射線科、循環器放射線科の各専門分野の放射線診断もめざましく発展した。
その後、1994年4月大川智彦が4代目主任教授に、2001年5月三橋紀夫が5代目主任教授に就任し、歴史と伝統ある講座の運営が引き継がれた。東京女子医科大学創立100周年記念事業の一環として総合外来センターを設立する際に、日立製作所との産学協同プロジェクトとしてPETセンター事業が2003年5月に発足した。その後、分化発展してきた放射線科業務も統合の時代となり、各センターのスタッフとして業務にあたっていた放射線科医達も放射線科スタッフとして統合された。近年の放射線医学のめざましい発展と多様化に伴い、2009年5月放射線医学教室が、放射線腫瘍学教室と画像診断学・核医学教室に分かれた。三橋主任教授はひきつづき放射線腫瘍学教室を主宰し、2014年3月に退任となった。そして、2010年3月には、坂井修二が初代画像診断学・核医学教室主任教授に就任し、現在に至る。